大判例

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最高裁判所第一小法廷 昭和47年(オ)1289号 判決

上告人

旧商号 日本瓦斯化学工業株式会社

三菱瓦斯化学株式会社

右代表者

志岐義郎

右訴訟代理人

高芝利徳

外一名

被上告人

富士栄不動産株式会社

右代表者

斎藤夫

主文

本件上告を棄却する。

上告費用は上告人の負担とする。

理由

上告代理人高芝利徳、同渡辺法華の上告理由第一点について

原判決の確定した事実関係は、次のとおりである。

1  上告人は、昭和三八年六月一五日訴外大塚富次(以下「大塚」という。)から同人所有の本件建物(ビルデイング)の二階部分176.85平方メートル(以下「本件貸室」という。)を、期間昭和三八年七月一日から五年間、賃料一か月二三万〇〇五〇円、敷金一三八万〇三〇〇円、保証金六六四万四七〇〇円の約定で賃借し、上告人は昭和三八年七月一日までに右敷金及び保証金を大塚に差し入れ、本件貸室の引渡を受けた。

2  右敷金及び保証金に関する特約として、本件賃貸借契約の期間満了の際、上告人が本件貸室の明渡を完了し、かつ、右契約上の債務を完済したときは、大塚は直ちに前記敷金及び保証金を上告人に返還しなければならず、ただ、上告人は、(イ) 右契約成立時から二年間はやむを得ない事情がない限り解約することができず、(ロ) 二年経過後は正当な理由がある限り解約することができるが、大塚は、右(ロ)の場合には直ちに敷金及び保証金を返還しなければならないのに反し、(イ)の場合には、敷金については、直ちにこれを返還し、保証金については、本件貸室の次の入居者が決定し、その者から保証金が差し入れられるまで、六か月を限つてその返還を留保できる旨約された。

3  本件保証金に関する約定は本件賃貸借契約書の中に記載されていたが、右保証金は、大塚が本件建物建築のために他から借り入れた金員の返済にあてることを主な目的とする、いわゆる建設協力金であつて、本件賃貸借契約成立のときから五年間はこれを据え置き、六年目から毎年日歩五厘の利息を加えて一〇年間毎年均等の割合で大塚から上告人に返還することとされている。

4  被上告人は昭和四三年五月九日競落によつて本件建物の所有権を取得し、同年六月五日その旨の登記を経由した。

5  建物の所有権移転に伴つて新所有者が賃貸人たる地位を承継するとともに、保証金返還債務も当然に承継するという慣習ないし慣習法が形成されていることの立証はない。

以上の事実関係に即して考えると、本件保証金は、その権利義務に関する約定が本件賃貸借契約書の中に記載されているとはいえ、いわゆる建設協力金として右賃貸借とは別個に消費貸借の目的とされたものというべきであり、かつ、その返還に関する約定に照らしても、賃借人の賃料債務その他賃貸借上の債務を担保する目的で賃借人から賃貸人に交付され、賃貸借の存続と特に密接な関係に立つ敷金ともその本質を異にするものといわなければならない。そして、本件建物の所有権移転に伴つて新所有者が本件保証金の返還債務を承継するか否かについては、右保証金の前記のような性格に徴すると、未だ新所有者が当然に保証金返還債務を承継する慣習ないし慣習法があるとは認め難い状況のもとにおいて、新所有者が当然に保証金返還債務を承継するとされることにより不測の損害を被ることのある新所有者の利益保護の必要性と新所有者が当然にはこれを承継しないとされることにより保証金を回収できなくなるおそれを生ずる賃借人の利益保護の必要性とを比較衡量しても、新所有者は、特段の合意をしない限り、当然には保証金返還債務を承継しないものと解するのが相当である。そうすると、被上告人が本件保証金返還債務を承継しないとした原審の判断は、正当として是認することができる。原判決に所論の違法はなく、論旨は採用することができない。

同第二点及び第三点について

所論は、原審の認定にそわない事実又は独自の見解に基づき原判決を非難するものにすぎず、採用することができない。所論引用の判例は、いずれも事案を異にし、本件適切でない。

同第四点について

原判決は、上告人が現に本件貸室を占有していないこと及び上告人において民法二〇一条三項所定の期間内に占有回収の訴を提起していないことを理由に、上告人が本件貸室につき留置権を有しないと判断したものであつて、原判決の確定した事実関係のもとにおいては、右判断は正当として是認することができる。原判決に所論の違法はなく、論旨は採用することができない。

よつて、民訴法四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

(下田武三 藤林益三 岸盛一 岸上康夫 団藤重光)

上告代理人高芝利徳、同渡辺法華の上告理由

本件は一件記録上明かな通り、第一審においては上告人の法律的論旨を全面的に採用した上、上告人の請求を認容したのに対し、原審は第一審口頭弁論以後格別目新しい被上告人の主張立証を加えることなく、専ら第一審における口頭弁論の結果に基づく法律的判断だけでたやすく第一審における正当な法律判断を排斥し、上告人の請求を棄却した。

しかし乍ら原審判決は借地法第一条の解釈を誤り、延いては従来の大審院、最高裁判所の判例の趣旨に抵触する違法があり到底破棄を免れないものである。

仍つて以下にその論旨を記する。

第一点 原判決は借家法第一条の解釈を誤る違法がある。

一、原判決はビルの賃貸借契約に際し、授受される保証金が賃貸借契約と独立した別個の契約であるか、それとも賃貸借契約と一体となり、又は完全に附随し、独立した存在意義を有しないものであるかの論点につき、「前認定のような保証金差入れの趣旨、目的及び契約内容によれば保証金に関する権利義務関係は、その根本の性格においては、賃貸人大塚に対する消費貸借上の権利義務関係にほかならず、これが本件借室の賃貸借契約の固有、不可欠の内容をなすものでないのはもとより敷金に関する権利義務関係のように、賃貸借契約固有の権利義務関係に対し、随従的性格を有するものとも認め難い」とし、その理由として「保証金授受の趣旨(借室の賃貸を条件に賃貸人に対し、ビル建築資金を融通するとの趣旨)にそうよう特別の合意により、そう定めたというにとどまり、保証金授受に関する権利義務関係が借室の賃貸借契約固有の内容をなすことによるものでないのはもとより、これに対し随従的性格を有することによるものではない、従つてまた、かように特別の合意によつて結び付けられていることによつて、本来性質を異にする二つの契約関係(賃貸借契約と消費貸借契約)が一個不可分の契約関係をなすものと解することも困難である。それ故、建物賃借人の保護を目的とする借家法第一条の解釈として、本来消費貸借上の契約関係にほかならない保証金授受に関する権利義務関係が当然に(賃貸人、賃借人及び建物の譲受人の三者の合意によらないで)、建物の譲受人(競落による建物所有権の取得者)との間に承継されると解することは、現行法の解釈の域を超えるものとし許されない」と判示した。

そもそも、本件の主要な争点は、賃貸人が賃貸建物を第三者に譲渡(本件は任意競売である)した場合において賃借人が賃貸借契約に基づき譲受人に対し、権利を取得し、義務を負担するのは借家法第一条制定の趣旨に照らし、如何なる範囲であるか、特に賃借保証金にまでおよぶか否かということに帰着する。

この点に関し、上告人は第一審以来、保証金の差入れは建物賃貸借契約の根幹(賃貸人の建物を使用させる義務、賃借人の賃料支払義務)ではないが、右根幹と一体となつて賃貸借契約の主要部分を構成するもので借家法第一条により、返還債務が新所有者に引継がれるべきであると主張して来た。

二、原審判決は「本件賃借保証金は差入れの趣旨目的及び約定内容によれば、その根本の性格においては賃貸人大塚に対する消費貸借上の権利義務関係に外ならず」と何等の合理的説明を加えることなく速断し、保証金がビル賃貸関係に果す法律的意義竝びに経済的効果を捨象する結果となつているが原審がかかる解釈をなすに至つた根拠は一件記録を精査するも見出し得ない。

翻つて上告人と前所有者大塚富次間の昭和三八年六月一五日付賃貸借契約証書(乙第一号証)をみるにその第五条には「本契約の保証金は金八百弐万五千円と定める。保証金は第七条の敷金額を除き初めの五年間は据置とし、六年目以降拾ケ年間に均等返還するものとする。但し、利息は六年目より、前項金額の残りの元金に対し日歩五厘を附して毎年支払うものとする。」第六条には「乙は前条保証金を左のとおり甲に預託するものとする」と定められており、他に契約全文を通読するもこれに反する文言はない。又原審の証人大塚富次及び第一審証人大西静雄の各証言、その他の一件記録によるも、上告人が賃貸借契約に際し、賃貸人大塚富次に金を貸し、同人がこれを借りたと認められる証拠はない。果して然らば、本件保証金は契約の全趣旨及び保証なる文言の法律解釈に従い、賃借契約の成立、竝びに同契約に伴う債務履行の保証及びこれに伴う損害の担保として預託されたと解すべきで、これに反する解釈は到底不可能というべきである。(保証の意味については民事訴訟法第百七条以下の担保及び同法第七四一条の保証竝びに民法四四六条の保証の解釈参照)

本件保証金の契約文面上の意義は前述のとおりであるが、それは近時一般に授受されている賃借保証金についてもいえることである。尤も上告人も建物賃貸借に際して授受される金員が、その発生当初(昭和二十年代)原審認定の如き性格を有していたことを否定するものではないが、(その当時には、賃貸借契約とは別個に建設協力契約とか、諸種の名前をふした契約が締結され、又担保をとることも行われていた)、昭和三十年以降保証金なる名称が付されるに及び、その性格が失われ、発生当初と異る法律的意味と経済的効果をもつに至つた。

即ち、今日東京都を始め諸都市に林立する多数のビルは一部自用を除いて賃貸されているのであるが、その賃貸に際しては、賃貸物件に対する賃料、敷金及び保証金が条件として呈示され(本理由書未尾に甲第一四号証として、最近或る不動産業者から当代理人の事務所に広告として送付されたパンフレツトを添附したが、これによると物件の特定及び賃貸条件として、所在地、階数、坪数、保証金、賃料、設備なる項目があり、これ等が建物賃貸借の重要要素となつていることが分る)、これに関する交渉、及びその支払又は預託が賃貸借契約の成立竝びに存続の最重要要素となつていることは、現時に於て公知の事実である。

しかして、かくの如く広汎に行われることにより、定型化した賃借保証金は、通常の消費貸借の如く、借主(賃貸人)の全資産又は人格的信頼関係等を担保として預託されるのではなく、建物固有の客観的価値(所在地、構造、設備等)に対する賃借の対価、即ち賃借条件の一として額が決り、預託又は返済され、然も建物の所有権が移転したときは物権化した賃借権の一部として新所有者に引継がれるとの認識のもとに授受されるに至つている。

かく解してこそ、利にさとい経済人が、賃借保証金として、坪当り、数十万円、総額数千万数億という巨額の資金を五年乃至十五年の長期に亘り、然も無担保、無利息(本件では五年経過後日歩五厘の利息が付されることになつているが、とるにたらない。)で預託する理由が理解し得るのである。

右の如く、賃借人の賃貸借契約上の債務の担保として定型化した形式に従い、賃貸人に預託される保証金は、謂わば、賃貸借契約に包含された一種の消費寄託であるのに、原審が根本の性格は消費貸借契約上の権利義務関係に外ならずと解したのは、被上告人の原審認定に副う主張を鵜呑にしたのか、或は大塚富次の主観的要望を証拠に基づかずして推量したのか不明であるが、何れとするも消費貸借契約の法解釈を誤るものというの外はない。

三、次に賃借保証金預託の両当事者に与える経済的効果について考るに、保証金は通常坪当り金拾数万円乃至数拾万円と金額が大きく(本件に於ては坪当り金拾弐万円、一月賃料の約二八倍である)、預託された賃貸人は、これを運用することにより、多大の利益を得ることができ、その客観的数額は一般経済界の金利情勢により、若干の変動あるも、平均的利廻りは年八分に及ぶものと理解されている。

一方、賃借人側に於ては、右年運用利益の十二分の一を月払地代に加算して実質賃料を算出し、賃料の高低を判断することが慣例となつている。

然るが故に宅地審議会の昭和四一年四月二一日付建設大臣に対する「賃料の監定評価基準の設定に関する答申」にも「実質賃料とは、貸主に支払われるすべての経済的対価をいい、各支払期に支払われる支払賃料のみでなく、保証金、敷金の運用益のすべてを含む」ものとされ、(上告人の原審に於ける昭和四六年七月一二日付準備書面第一、四参照)、これに従つた財団法人日本不動産研究所常務理事鑑定部長斉藤逸郎作成の大塚ビルの適正賃料についての鑑定書(甲第八号証)では、敷金、保証金の差入額の多寡により、月々の支払賃料が増減さるべきであると具体的事例に基づき鑑定計算されている。

右の如く保証金預託の経済的効果は運用利廻りを通じて貸借契約の根幹をなす実質賃料を構成し、この慣行の普偏化に伴い、法律的にも同様の意義をもつに至つている。

この点につき、原審判決は「賃借人が保証金として多額の金員を貸与(?)し、その弁済について期限を猶予し、かつ分割弁済の利益を与えるのは、その反面において、ビル等の場所的利益ないし営業上の利益を期待しているのが通例であつて、その両者は相互に対価関係をなすものというべきであるから、保証金は常に一方当事者である賃貸人の利益にのみ帰するものとは速断できないし、また経済的評価は別として、少くとも法律的には保証金ないしその運用益が当然賃料の一部となるものともいえない」と述べ、その前段に於て、保証金の運用益が、建物賃貸の対価関係に立つことを認め乍ら、法律的には、対価(実質賃料)と認められないとの結論を導き出し、全く自己撞着する結果となつている。

四、万一原審判決の如く、新所有者に保証金返還債務が承継されないこととなつた場合には、本件の如く旧所有者が倒産して建物が競売に付された場合、旧所有者には保証金を返還する資力がないので、多額の保証金を回収できなくなつた賃借人は全く窮するに至ることは明らかである。現時経済社会に於ては、想像に絶する巨額の資金が、保証金として預託されているのであるから、かかる判例が確定すると悪徳家主は故意に資産を隠匿し、保証金の支払を免れる手段として、建物を譲渡するの悪弊を生じ、延いては取引の安全を阻害することが明らかで、かかる解釈は賃借人の経済的地位を保証するために設けられたる借家法第一条の法意に反することが明らかである、(大審昭和一一年一一月二七日、昭和一一年(オ)第一五九三号)また原審は前示解釈の有力根拠として、民事訴訟法第六五八条第三に敷金のみ記載され、保証金が漏れていることをあげているが、同条第三は既に数次の大審院の判例により、建物の譲受人に承継されることが確定した敷金及び前家賃の存在及び金額を競売手続上明らかにし、競落人に不測の損害を与えない様にとの配慮から、昭和一三年法律第一三号により同法第六四三条一項第五号と共に改正挿入されたものである。(我妻栄、有泉享著法律学大系コンメンタール篇三債権法第三八〇頁参照)

右の如き改正事情を没却して、同条文の外形的文言から、改正時に存在しなかつた保証金に対する借家法第一条の法意を推定することは本末を転倒するものとして許されないことというべきである。

しかして、今日の競売手続に於ては、同法には規定なきも賃借保証金は実務上競売記録や公告(甲第七号証)上明らかにされており、(仮に記録又は公告に記載なしとするも一寸調査すれば分る)、借家法第一条の法意を上告人主張の如く解するも、競落人に対し、不測の損害を与える虞はない。

以上で明らかな如く、本件賃借保証金は客観的にも又契約当事者の主観においても今日一般経済界に於てビル賃貸借に際し広汎、且つ定型的に授受される金員で、その法律的性格は、賃貸借契約に基づく賃借人の賃貸人に対する全債務についての保証乃至担保であると共に、経済的(延いては法律的にも)にも、その運用利益が実質賃料を構成するものなれば、これが預託契約は賃貸借契約の主要部分を構成するか、少くとも全くこれに附随し、独立して存在意義を有しないものというべく、正に賃借人の保護を目的とする借家法第一条による保護の対象となるべきこと明らかである。

かく解してこそ複雑且つ高度化した今日経済社会に於ける建物賃貸借関係を正解したものと言い得るのであり、これに反する見解に立つ原判決は、借家法第一条の解釈を誤る違法があるものとして破棄を免れない。〈以下略〉

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